「誰よぉー。走れば間に合うって言ったの!」
走り去る電車の音が、無情に響く地下鉄構内。その音を追いかけるようにして叫んだ私の声に、誰もいないと思っていた場所から「あー」と低い響きの返事があり驚いた。
「俺、だったかな」
「うわ! びっくりした!」
声のした方へ視線を向けると、呼吸の乱れた私とは対照的に、涼しい顔をした松川が前髪かきあげながら私を見下ろしていた。実にクールな出で立ちである。
そうそう。そうだよ。そうなんだよ。このクール男松川だよ。走れば電車間に合うって言ったの。
ダメじゃん。ダメだったじゃん。そう思って脱力して、その場にしゃがみこむ。そうすると、アルコールの回りきった身体は指先から眼球まで、びっしりと熱で覆われているような感覚だった。
「あーもう。飲んだ後に必死こいて走ったのに。心臓ばくばくだよ! しんど!」
「自棄になってんなぁ」
そりゃね。自棄にもなるさ。サークルの皆で飲んでて。楽しいーって気分最高になって。私明日一限あるけど、落としたらヤバいやつだけど、まあ、いいかな今楽しければ。みたいなことを言ったら松川が、走れば間に合うんじゃない? 今帰んないと絶対明日後悔するぞって言うから。俺も帰ろうと思ってたし、一緒に走るぞ、明日の自分に恨まれたくなければなって脅すから。だから走りにくい服で走りにくい靴だったけど、必死に走ったのに。
「間に合わなかったじゃん! 間に合うって言ったのに!」
「ミョウジの足の遅さが計算外だったわ」
「それはごめんなさいね!? でも松川だって間に合ってないからね!」
「いや? 俺は間に合ってたけど?」
はあ? 間に合ってないじゃん? 強がりもほどほどにしなさいね。そう目で訴えると、松川は何てことはない。「俺は間に合ってた」と真顔で言われて、思わず口を閉じる。
確かに、よし走るぞとなって駆け出したとき、わりと最初の段階で松川の背中を見失うくらいには足が早かった。
「間に合ってたのになんで乗らなかったの? もったいない」
「ミョウジが来なかったから」
「私のこと待ってたってこと? なにそれ……優男じゃん」
「俺が焚き付けたのに置いて行けるかよ」
「まって、不用意に優しくしないで。失恋の傷に沁みる」
「失恋?」
「そう。ちょっといいなって思ってたカフェの店員さん。こないだ可愛い女の子と手繋いで歩いてたの。ガガガーンですわ」
あぁ、そうなんだって、冷ややかな声を出したこの男は、失恋とは無縁なんだろうなって思う。いや、勝手な予想だけど。だって松川は、私の中ではもう最上級にイケメンだから。サークルの皆は爽やかイケメンの先輩、もしくは、アイドルみたいに綺麗な顔した後輩がイケメンだと言う。そりゃ、先輩も後輩くんもイケメンだ。けれど私は声を大にして言う。「松川一択でしょ!?」って。もちろん本人には内緒だけど。
「そんなのは失恋って言わねぇよ」
「えー急に抗言するじゃん」
じゃあ失恋ってなんですかぁ松川センセーと、松川に問う。松川はふんと鼻を鳴らして、ありもしない眼鏡をかけなおす仕草を見せた。
あれ? もしかして松川、酔ってる?
「何も手につかなくなる」
「うんうん」
「過去が美化されていく」
「あぁー、それはわかるかも」
「そんで忘れられなくなる」
「なんか怖いねー。呪いみたい」
「呪いだよ」
松川の黒々とした虹彩が少し、怖かった。そう感じてしまうのは、私が酔っているからか。酒のせいで松川の目が据わっているからか。
「お詳しいですね、松川先生。大失恋の経験でもあるんですか?」
「別に。相手にとって俺は、思ってたのと違うらしい。ただ、そんだけ」
「なにそれしんどい」
失恋とは無縁だろうって勝手に思っててすみませんでした。そして松川の地雷は覚えておきます。
「つか店員さんのどこがよかったんだよ」
「え? そこ掘り下げる?」
「電車はないけど、時間はあるだろ」
それもそうか。そう思って、誰もいない反対側のホームを眺めながら思い出す。些細な出来事を。
「私、ハンドメイドが趣味なんだけど」
「ハンドメイド」
「手芸とか裁縫とか」
「あぁ」
「この前お財布を作って。皆に見せたらババ臭ってバカにされたけど、自分では気に入ってたから普通に使ってたの」
使わないと勿体ないし。材料費が。
「カフェでコーヒーとシフォンケーキを買って、トレーを持ってこう、小脇にね、財布を挟んで歩いてたら、落としたわけですよ。財布を。そしたら店員さんがササッと拾ってくれて。手作りですか? 素敵ですねーて」
松川は人差し指の第二関節で唇の縁をなぞるようにして、呆れた笑みを控えめに隠した。
「へぇ。そりゃー、」
「待って! 言わないで! わかる。わかるよ? それも接客のひとつだろって言いたいんでしょ? それに失恋って言ったのも冗談だからね! 残念とは思ったけど! 店員さん目当てでカフェに通ってたけど!」
「はは、必死だな。俺まだなんも言ってねぇじゃん」
「言わなくてもわかる。ちょろいなって言いたいんでしょ? でもそうなの。私ってちょろいのよ! 」
松川は声をあげてカラカラと笑った。その様子にちょっと驚いた。だってそんな笑い方をする松川を、初めて見たから。
「ミョウジってちょろいんだ」
「そう。ちょろいのです」
あーなんか、言ってて恥ずかし。話題を変えようと鞄からスマホを取り出しサークルメンバーからのメッセージを確認する。
「皆カラオケオールするらしいよ。私も皆に合流しようかな」
松川どうする? そう聞こうと思って松川を見上げると、バチって音と火花が飛び出そうな視線が私を見据えていて、言葉に詰まった。
「松川めっちゃこっち見るじゃん」
「ん? あぁ、見てたな」
「え、なに? 私の頭に何かついてる?」
「俺もさ、結構ちょろいんだよね」
「へ? あー、そうなんだ? 仲間ですね」
「俺が一番イケメンだって言ってる子がいたら、その子のこと気になるくらいには、ちょろい」
ぶはっと、思わず変な咳が出た。まじか、バレてた?
頭の中が軽くパニックになって、「まじかー」と無理矢理に出した声は異常なほどに震えていた。
「俺ん家歩いて二十分くらいんとこにあるけど、来る?」
「は、え? 来る? は? いや、なら松川、電車乗る必要性、なかったんじゃないんですかね」
語尾やらなんやらがおかしくなっている自覚はある。けれどそんなこと気にしている暇はなかった。
「それは、ミョウジのこと送ろうと思ってたから」
まって。まってまってまって。これはよくない流れだ。なんか心臓ばくばくしてるし。落ち着こう。まず、落ち着こう。てかこのばくばくは、最初からじゃん? お酒飲んで走ったからじゃん? なんならやっぱ松川、酔ってんじゃん?
「言っとくけど俺、酔ってねぇよ?」
うわ、思考が読まれている! 意味がないとわかりながらも、私は両手で口元を覆って隠した。するととどめと言わんばかりに松川は「ミョウジってわかりやすいよな、可愛い」なんて、信じられない言葉を吐いて、終始しゃがんでいた私の横で一緒になってしゃがみこみ、同じ高さで視線を交えてきた。
「ちょっとタイム! ねえ、言ったよね? 私ちょろいんだから! 迂闊にそういうこと言わないでくれる!?」
「ならもうひと押しってとこ?」
「松川、なんかキャラちがっ、」
やばい! 地雷だった! 時既に遅し。松川の大きすぎる手が私の頬を鷲掴んだ。その圧力と距離感に、息をのむ。
「ど、どっきどき、する」
私が絞り出した言葉に、松川は子どもみたいに破顔して見せた。その顔を見て、やっぱりコイツ、酔ってやがる。そう思ったのと同時。本当に自分はちょろいなと、再確認した。
ちょろいので部屋に行きます。
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